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小畑 実(おばた みのる、1923年4月30日 - 1979年4月24日)は、朝鮮平壌出身の歌手である。本名は、康 永喆(강영철 / カン・ヨンチョル) == 経歴 == 1937年、同胞のテノール歌手・永田絃次郎に憧れて16歳で日本に渡り、日本音楽学校に入学。苦学しながら声楽を学び、1941年に卒業。その後は江口夜詩の門下となる。このころ、下宿先の大家で秋田県大館出身の小畑イクに面倒を見てもらったのが、小畑姓と秋田出身を称した理由とされる。なお、イクの息子である小畑達夫はいわゆる共産党リンチ事件で死去している。 デビューは1941年2月、ポリドール・レコードからで『成吉思汗』であった。ただし、朝鮮半島出身を隠して出身地を秋田県としていた。後にビクターへ移籍し、翌1942年の『湯島の白梅』が出世作となる。1943年には『勘太郎月夜唄』をヒットさせ新進気鋭の歌手として注目を浴びるが、本格的な活躍は終戦後であった。 テイチク・キング・コロムビア・古巣のビクターと所属会社を転々としたが、甘いクルーナー唱法で『小判鮫の唄』・『薔薇を召しませ』・『アメリカ通いの白い船』・『長崎のザボン売り』・『ロンドンの街角で』・『高原の駅よさようなら』など太平洋戦争をまたいで多くのヒット曲を飛ばした。特に『星影の小径』はフランスのシャンソンをベースにしたロマンチックな旋律と「アイ・ラブ・ユー」という英語を歌詞に用いた斬新さに加え、彼の歌唱の特徴が生かされた傑作である。 『平凡』の人気投票では美空ひばりと共に男女の1位を続けたが、1957年、春日八郎・三橋美智也の台頭により、首位陥落。これを機に同年の第8回NHK紅白歌合戦出場を最後に一度引退。一時期は実業界に移り、ラスベガスでホテル経営に乗り出す。在日社会の関連で紡績会社の重役にも就任し、六本木でレストラン経営などもするが、1969年、折からの懐メロブームもあって『勘太郎いつ帰る』で復帰。韓国にもしばしば渡り、本名で活躍する。昭和50年代に入った頃から「もう一度ヒットを出したい」と、車で地方に出向き、みかん箱の上に乗ってマイク無しで新曲を歌ってレコードを手売りする歌の行商を始める。ゆるぎない地位を築いている往年の大歌手が、それらを半ば投げ捨て、出たての新人のようなキャンペーンをするということは多くの波紋を呼んだが、奮闘の甲斐があってか『星のない渚』『湯の町しぐれ』はヒットを記録。その傍らで、ステージ活動や刑務所の慰問、後進の指導にも精力的に取り組む。1979年4月24日午後4時40分、千葉県野田市の「紫カントリークラブすみれコース」でプレイ中に倒れ、市内の「荒川総合病院」に救急搬送されたが、午後5時10分に急性心不全のため亡くなる。享年55歳。 当日は午前10時に一人でコースを訪れ、初対面の三人とまわっていた。1ラウンドハーフの16番ロングホールのセカンドショットで倒れ、キャディが駆けつけた時には意識不明だった。このゴルフ場には月に5、6回来ていて、56歳の誕生日を前に急死した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小畑実 (歌手)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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